前田嘉次郎(前田産業・前田温泉創始者)が霧島温泉のパイオニアとして、大工道具をかつで山奥に入ったのは大正2年(1913年)でした。現在霧島温泉群の中核になっている丸尾温泉の発見は古く、文政2年(1819年)明治維新の50年前のことで、横尾権太という人が狩りをしているとき見つけたとされています。(鹿児島温泉誌)この付近の温泉は「殿湯」・「丸尾」・「栗川」・「塩湯」の順に発見されていますが、山間部の谷川沿いの自然湧出の湯と小屋で、近在の人々の湯治場となったものでした。
明治27年(1894年)野島陸軍少将が別荘を建てたころから、別荘ブームが始まりました。 その後、もっと上手の「硫黄谷」・「栄之尾」・「明礬」温泉などが開発され、その建設に従事するために、嘉次郎はやってきたのでした。 そして、丸尾に温泉旅館ができたのは大正6年(1917年)蔵前以蔵さんの丸尾旅館で、この設計・建築も嘉次郎が棟梁として腕をふるったものでした。昭和に入って現在地に居住した嘉次郎は自家湯として、今の前田温泉の浴場のあるところに、一坪ばかりの湯小屋を建てました。これが、自家湯とはいいながら近所の人にも供せられ、いつの間にか《カジロが湯》として、知られ、誰でも勝手に入ったのです。
さて、丸尾地区一帯は行政地名は高千穂地区になっていますが、さかのぼりますと、明治6年(1873年)に都城県から鹿児島県に編入され、明治22年(1889年)市町村制で牧園村となったとき、大字下中津川の飛び地として扱われました。昭和22年(1947年)に高千穂地区として独立しましたが、丸尾の名は通称の地名となり字名として表記されたことはありません。中津川の源流にある「丸尾の滝」がその名をとどめていますが、高千穂地区の中心が丸尾で、霧島温泉群の中心観光地であることに変わりはありません。
嘉次郎は棟梁から霧島国有林の委託伐採業に身を転じ、その後製材業を始めましたが、大戦で応召,戦後復員したとき、荒廃した身と心を癒してくれたのが自らつくった《カジロが湯》であったのです。 やがて、復興から観光ブームへ、林立するホテル群の中で、湯治は忘れ去られ、温泉は観光の道具になってしまった。嘉次郎はこの丸尾に骨を埋めることになりましたが、身も心も癒してくれる温泉という思いで《カジロが湯》の跡に残したのが湯宿前田温泉なのです。
今どき、自炊や湯治といえば古いでしょうか。いや湯治保養こそが、温泉利用の原点なのです。そのためにこそ、ゆったり、ゆっくり、ゆうゆう気分でくつろいでいただきたいのです。
霧島温泉郷 丸尾の湯
前田温泉